ここでは「御幸が原小学校」が発行している記念誌からの御幸ヶ原地区の歴史を紹介したいと思います。
小学校の記念誌には地域の歴史などが多く掲載されているようです。
1.古代の御幸ヶ原
遥か悠久の昔むかし、北に噴煙を上げる那須の連山を望み、北西にはそれに負けじと盛んに火柱を高くしている日光の山々に、怯えながら暮らしていたであろう古代人が、私たちの今住んでいる御幸ヶ原地区にいたとしたら、皆さんはどう思うでしょうか。
でも本当に住んでいたとなれば、その人達の暮らしに興味を抱くのは当然であり、そのいにしえのロマンに心を動かされるのも当然とも思えてならないですね。
御幸ヶ原地区に住んでおられるAさん宅は、その貴重な土器や石器、そして実に精工に仕上がっている石の矢尻を保持されおります。昭和21年頃に入植された当時、現在のお宅より少し南西の方面の畑の中のある個所から、大量の土器や石器が出てきて、当時は畑仕事の邪魔になるだけだったので、奈坪川(奈津保川)の方へ捨てていたのですが、ある日のこと草取りをしている手の先にキラリと光る小さな石片を見つけた時、それが古代人の作った矢尻としり、何か古代人が語りかけてくるような気がしてならず、以来発見に努めて大切に保管しているそうです。
それと、今も使っている井戸についてですが、入植同時に仲間達と1軒に2日の割合で井戸を掘ることになり、その番が来たとき2日間掘り進んでも水の出る気配がなく、さらにもう半日深く掘ったところ、地下15mの所から鬼怒川の河原に転がっているのと同じくらいの石がゴロゴロ出てきてみなで驚いたというそうです。その石を確認したところ、直径が30~40cmもある大きな石で、丁度現在の岡本橋付近にあるのと同じ石の様でした。古代人は、鬼怒川の伏流水が地表に出て、奈坪川(奈津保川)と合流するこのあたりに住居を構えて、魚や獣などを追って暮らしていたのでしょうか。。。
(1986年頃の文面です)
第2章 空白・・・江戸時代の五街道
江戸時代の頃は、平出っぱら(平出原、平出が原など諸説あり)と呼ばれたこの御幸ヶ原の地は、宇都宮から烏山方面や、今は全然その面影のない鬼怒川の板戸河岸へ向かって、五街道と呼ばれる道が通っていたという。
現在の竹林交差点の近くの、東香園より木戸内科前(地図)を抜けて、当時の烏山街道は御幸ヶ原西端の五差路(地図)まで来て、御幸町方面に向かって①柳田街道、アイワールド方面(2016年現在の極楽湯宇都宮店、ZENT御幸店 付近かと思われる)に②第1板戸街道、松下電器(2016年現在、パナソニック株式会社・アプライアンス社・テレビ事業部 平出工業団地2-2)方面に③第2板戸街道、そして三菱製鋼(2012年閉鎖、平出工業団地1-8)方面に④烏山街道、更に現在の公民館から釜井台に抜ける道を⑤和久街道と、それぞれ呼ばれていたという。
もう1本の、白沢街道の堀切より入った烏山街道は、奈津保川(奈坪川)を渡るとすぐに東に向かい、現在のつちや商店より三菱製鋼方面で、五差路から来た和久街道と合流していて、その地点は上野町のバス折返し所のあたりとみられている。
当時の板戸河岸は、宇都宮近在より江戸に向けての物資の集積地で、そこに集められた品物は、舟で鬼怒川を下り、利根川に出て関宿より江戸川に入り、隅田川から江戸の人々に供給されたということである。
当時をしのぶとすれば、御幸堂踏切とあることで、それがしのばれるのみである。
第3章 江戸から明治そして昭和初期
實保新田
今から約250年位前の桜町天皇の時代、この地が開拓されて、實保新田という部落ができたといわれております。それから間もなく實保新田は、農作物の成育が不良のため、他所への移住者が続出して遂に廃絶したと語り伝えられています。
鉄砲隊
明治初年頃のこと、わが国で初めて徴兵の制度ができた時に、宇都宮城の御本丸に歩兵1個大隊が設置されたが、その際この地が射的練習場となりました。鉄砲隊は、現在の小学校付近で演習し、当時は鉛玉を使用していたために、その後しばらくの間は鉛玉を発見することが出来たそうです。
明治天皇行幸と大演習
明治25年11月のことです。近衛師団、第1師団、第2師団の3個師団が参加して、関東地方から奥羽地方にまたがり大演習が行われました。その時の観兵式(軍事パレード)が平出が原で行われ、明治天皇が小松宮殿下をはじめ各将軍を従えて、諸隊を観兵されたのが、現在の釜井台3区のバスの折返し所より北へ100mくらいの所でした。(記念碑は現在(1986年時点)釜井台公園内に移動して建立されています)
官有地の払い下げ
實保新田廃絶後、芝原となって付近の農家の草刈り場となっていたこの地を、石井村の鬼怒川の近くで大紡績工場を経営していたK氏が払い下げを官庁に出願して認可されたのち、白沢村のN氏が買受け、これを付近の農家に切り売りし、購入した農家は開墾して畑として耕作したり、木を植えて山林として管理するものも出てきたが、これも長くは続きませんでした。
第4章 御幸ヶ原誕生前後
昭和17年頃、鹿児島県人の牟田口吉太郎氏がきて、約120町歩(1,179,600㎡)の未開の原野に目をつけて、この地で大牧場を経営して、不足する軍馬の育成や農産物の増産を図り国家に協力するとの主旨で、土地を買収して食品会社の設立を果たしたが、終戦の混乱で事業は失敗した。終戦直後の農地解放に対してもそれを認めず、提訴して県や国と争いを生じて、そのために昭和50年迄この地は裁判沙汰となり、住民は艱難辛苦の生活を強いられた。
牟田口氏は戦前、挑戦で鉱山を経営していた時にも軍の接収に抗議して、提訴を起こし勝利した経験があったがために、新生国家の目玉政策の農地解放にも、これを認めず提訴したものと思われる。
軍隊
旧陸軍工兵隊の作業隊200余名、陸軍病院の教育隊は、尾形少佐烏賊500余名、その他に陸軍病院(現国立栃木病院)内に農耕隊若干名が天幕や半地下溝の小屋で駐屯していた。敗戦とともに、大半のものは故郷に帰ったが、尾形少佐は共鳴する部下たちとともに新天地を求めて、矢板市の高原山に移り、それが現在の高原農場となったのである。その時教区隊にいて、少佐の命令によりこの地に残り、数々の困難の中で指導的立場で活躍されているのが御幸ヶ原町北自治会長のC氏である
南洋興発と関東食品
国策会社であった南洋興発の人たちは、遠くサイパン島、テヤニン島など、いわゆる南方からの引揚者で、夏の酷暑には耐えられても、冬の厳寒には耐え難く、家族で身を寄せ合って眠った夜は数知れぬほどであったという。サイパン島にて長男を失いつつも、ここを永住の地として選んだのは、御幸ヶ原老人クラブ会長のD氏達である。
牟田口氏の経営する関東食品の人たちも、農地解放という画期的な政策と時代の流れに逆らう様に、先述のごとくに、頑としてそれを認めようとしない牟田口氏のために、更に忍従の生活を余儀なくされたのであった。先住していた社員には、御幸ヶ原南自治会長のE氏がおり、戦後から参加した人にはF氏やG氏達がいた。
第5章 戦後のくらし(その1)
昭和22年、混乱の続いている中で開拓組合の母体となった43戸がこの地に住むこととなり、その内訳は、復員軍人24、引揚者15、疎開者4であった。しかし、ある程度開拓されていた南の方(御幸ヶ原南自治会)に比べて、まったくの雑木林の北の方の開墾には、困難を極めたが、近所同士で助け合いながら徐々に耕地が広がってきたものの区割りの必要があるために、H氏が率先して県の農業会に勤務して、鋭意その問題に取組み、各戸の区割りを完了した。
昭和23年に上記43戸により開拓組合を結成したが、標高120m、年間平均気温12.5℃年間降水量1,522mm、夏の激しい雷雨、冬の厳しい冷え込み等でなかなか思うような作物が生育せずに、その苦しい暮らしは、筆舌には尽くし難いものがあった。当初は陸稲、落花生、大麦、小麦を中心にさつま芋やウドなども作ったが、そのほとんどが自家用の食料として消費され、市場に出す迄到らず、現金収入は、冬の土木工事や手間賃取りにたよるのが精いっぱいであった。
昭和24年~25年にかけて、ようやく全戸に電気が入ったが、なにしろこの広い地区内に43戸が点在しているのだから、電力会社の方も簡単には電柱を立ててくれるはずもなく、I氏やJ氏は、なかなか届かぬ電気に思い悩んだ末に、貴重なお米や小豆などを持っては工事店まで出向き自分で木を切って電柱にして電線を引いてもらったほどであった。K氏の長男のL氏(1986年頃34歳)などは、ランプの明かりでの出産だったために、難渋したと、今では考えられないその頃の生活を笑って語る。
昭和26年~30年頃になると、農作物の出荷も何とか一応の目途ができて、ある者は背負い、ある者は大八車に野菜類を載せて市場に運んだが、当時の地区内の道路は泥んこ道のひどい道で、白沢街道すら石がゴロゴロしていてそれは大変な苦労であった。配給の統制も解除されて、やれやれと思う頃であったが、その苦労を何とかしようとしたM氏夫人は思い切って岩曽町の自転車店からリヤカーを購入して皆を驚かせたが、代金は1万円だった。当時の土木工事の日当が250円~300円の頃だと聞けば、そのバイタリティには改めて敬服するのみである。祝神神社を現在のところに移したのはその頃で、市議会議員のN氏の父O氏の英断である。
第6章 戦後のくらし(その2)
昭和31年~35年頃になると、農業だけでは収入の増加が望めないため、酪農業を営む人たちが出てきて、乳牛や養豚、更に養鶏から養蚕へと次々に新しい道を探し始めたころになって最初にP氏がテレビを購入したので、近所の人たちは夕方になると、物珍しさも加わって全員が訪れるようになり、力道山のプロレスに熱中し「日真名氏飛び出す」(当時のドラマ)を楽しんでいた。酪農はQ氏達、養豚はR氏達、養鶏はS氏達、養蚕はT氏達によって一時は隆盛を極めた。
昭和36年~40年頃になると、現在の小学校の周辺で、深井戸を掘って水田の稲作がおこなわれるようになり、経済成長のテンポを着実に早めつつある中で、相変わらず辛くて苦しい生活の中にも、なんとなく将来に希望が見いだせる位の多少のゆとりは出てきた。昭和35年頃に、初めて電話を設置したU氏の所では、深夜早朝をたがわずにかかってくる電話でてんてこ舞いの忙しさで、のんびりと新婚生活を営むどころではなかった。
昭和41年~45年頃になると、地区の周辺で、釜井台団地や上野団地が造成され始めて、時代が大きく変化することを感じながらも、牟田口氏と係争中のために最後の苦しみの中にいた。
昭和46年~50年頃になると、当時の県知事の大英断により、地区住民の悲願であった市街化区域への陳情が認められて、苦節25年の幾多の歴史と汗と涙の土との戦いの終わりに心から乾杯するのであった。
それから宅地化へのテンポは早く、V氏達が地産団地を造成するや、地区内には10棟から20棟の建売住宅が次々と販売されて、市内屈指の人口増加地区となったことが御幸が原小学校建設の原点になっている。